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Brand History

Brand History

 
 

100年以上にわたる歴史と打ち立てた数々の金字塔

伝説に満ちた、そして波乱に富んだアウディの歴史は19世紀にまで遡ります。100年以上にわたるブランドの伝統は、多くの偉大な人物たちによって紡がれてきました。ここでは、彼らの業績に加え、時代をリードした数多くの名車、自動車の開発・製造、及びモータースポーツの世界でアウディが打ち立てた数々の金字塔について紹介します。

1899年 創立

1899年、アウグスト・ホルヒがケルンにて「アウグスト・ホルヒ&チエ」という自身初の自動車会社を創立しました。その後1909年にはツヴィッカウにて新しい自動車会社を立ち上げ、1910年以来「アウディヴェルケAG」という名で事業を続けています。こうして現在の社名が誕生しました。

 

アウグスト・ホルヒから始まったアウディの歴史

栄光と波乱に富んだ過去を持つアウディ。その車とエンジンの製造の歴史は19世紀まで遡ります。すべてはドイツの偉大な自動車エンジニア、アウグスト・ホルヒによってはじまりました。ホルヒは、ザクセン州ミットヴェイダの工科大学を卒業した後エンジンの製造に取り組み、後にマインハイムのカール ベンツ社で自動車生産部門の責任者を務めました。そして1899年に独立し、ケルンにて自動車会社の「ホルヒ&チエ」を創立。1902年、ホルヒは会社をザクセン州のライヒェンバッハに移し、その後1904年にはツヴィッカウに移転して株式会社へと再編されました。

ホルヒ社からアウディへ

取締役会および監査役会との意見の対立を理由にアウグスト・ホルヒは1909年に会社を離れ、ツヴィッカウに2社目の自動車会社を創立しました。彼の苗字である「ホルヒ」いう名前は既に最初の会社で使われ、商標権により保護されていたため、新会社にはそのラテン語訳が使われることになりました。こうしてドイツ語で「聞く」を表す「Horch(ホルヒ)」は「Audi(アウディ)」となったのです。ラテン語訳を用いる案はホルヒの当時のビジネスパートナーの息子が考えたアイデアでした。ラテン語に精通した彼は、ホルヒたちが新しい社名を検討しているという話を聞きつけ、これを提案したのです。その後の手紙の中で、ホルヒは「Kind regards – Audi-Horch(敬具、アウディ‐ホルヒ)」という署名も残しています。そして1914年12月、アウディ自動車工業GmbHも株式会社になりました。

 

1932年 Auto Union AGを設立

4つの輪が重なるシンボルはドイツのザクセン州を代表する4社の自動車メーカー「アウディ」「DKW」「ホルヒルヒ」「ヴァンダラー」が連合してできた自動車メーカー「Auto Union(アウトウニオン)AG」の象徴です。当時、アウトウニオンはドイツで二番目に大きな自動車メーカーでした。現代のアウディAGのルーツを辿ってみましょう。

 

Auto Unionの設立とフォーリングス

1932年6月29日、アウディ、ホルヒとDKWはザクセン州銀行の主導のもと合併し、アウトウニオンAGとなりました。同時に、ヴァンダラーの自動車部門を買収するための売買契約も交わされました。合併後、新しい会社の本拠地はケムニッツとなり、アウトウニオンAGはドイツで2番目に大きい自動車メーカーになりました。

フォーリングスの誕生

会社のエンブレムには4社の固い結束を意味する4つの重なった輪っかが採用され、アウディ、DKW、ホルヒとヴァンダラーのブランド名もそのまま残されました。そして各ブランドは、それぞれが特定の市場セグメントを担当することになりました。DKWはバイクと小型車、ヴァンダラーは中型車、アウディはデラックス中型車でホルヒが市場最高の高級車です。

グラフィックデザイナーやタイポグラファーとして有名なクルト・ヴァイデマン(1922-2011)は「良いロゴとは足の指で砂浜に描けるほど単純なものである」という言葉を残しています。単刀直入でシンプル且つ、印象的で独創的。90年前のロゴのデザイナーも、まさにそれを目指していたことでしょう。1932年にアウトウニオンAGとして合併したアウディ、DKW、ホルヒとヴァンダラーが後にアウディAGとなった際、新たなロゴが必要になりました。そして4つの重なったリングのロゴが誕生したのです。

アウディ

1909年7月16日にアウグスト・ホルヒによってツヴィッカウで創立されたこの会社は、創立者の名前が既に競合社に使用されていたため、その名を受け継ぐことができませんでした。そこで、ドイツ語で「聞く」を意味する「ホルヒ」の名前をラテン語に訳した言葉が新しい社名として採用されました。

アウグスト・ホルヒが二番目に創立したこの会社は1910年4月25日に「Audi Automobilwerke GmbH」として取引がはじまりました。

DKW

1902年に「Rasmussen & Ernst(ラスムッセン&エルンスト)」としてケムニッツで創立された後、1907年にエルツ地方のチョーパウに移転。当初は上記発電所の蒸気油分離機、車のマッドガードとライト、加硫装置や遠心分離機などを製造販売していました。

創立者のイェルゲン・スカフテ・ラスムッセンは1916年から蒸気自動車の開発をはじめ、1922年にはDKW(蒸気自動車を意味するDampfkraftwagenの略)を商標登録。1919年には玩具のエンジンとして2ストロークエンジンを製造しはじめました。1921年に社名を「Zschopauer Motorenwerke J.S. Rasmussen OHG」に改名。その1年後にDKWのブランド名でチョーパウ工場で生産された初のバイクが販売されました。

ホルヒ

19世紀の終わり、ドイツには既にいくつかの自動車メーカーが存在していました。その中の一つが1899年11月14日にケルンで創立されたアウグスト・ホルヒ&チエ社です。アウグスト・ホルヒは自動車エンジニアの先駆者の一人です。自身の会社を立ち上げる前、彼はマインハイムのカール ベンツ社で自動車生産部門の責任者を3年間勤めていました。1904年、アウグスト・ホルヒは会社をツヴィッカウに移し、株式会社へと再編しました。

Wanderer

1885年、ヨハン・バプチスト・ヴィンケルホッファーとリヒヤルト・アドルフ・イエニケという二人の整備士がケムニッツに自転車の修理会社を設立しました。当時は自転車の需要が高かったため、会社を立ち上げてからすぐに、彼らは独自の自転車を作りはじめました。彼らが作った自転車にはヴァンダラーというブランド名がつき、1896年から会社は「Wanderer Fahrradwerke AG」として取引をはじめました。ヴァンダラーが初めてバイクを生産したのは1902年です。その後自動車生産へと参入したのは1913年のことでした。

Special Column Motorsport history

「レースは走る実験室」現代に受け継がれるアウグスト・ホルヒの哲学

「レースは技術の実験室である」——。Audiの創業者アウグスト・ホルヒ博士は、この信念のもと、モータースポーツに力を注ぎました。その伝統を受け継ぎ、Audiは100年の歴史の中で、独創的な技術を次々とレースに投入し、輝かしい成功を収めてきました。1930年代、人類初の400km/hオーバーを含む数々の世界記録を打ち立て、現在のF1マシンの原型となったシルバーアロー。フルタイム4WDという独創技術でWRC(世界ラリー選手権)を席巻し、モータースポーツの常識を変えたAudi quattro。そしてルマン24時間レースでは、ディーゼルエンジンではじめてガソリンエンジンに勝利するという快挙も達成しました。モータースポーツで培った高い技術は、Audiのすべてのモデルに生かされています。例えば、膨大な風洞実験に裏打ちされた、空力特性に優れるデザイン。フルタイム4WDシステムのquattro®。直噴技術によってパフォーマンスと高い燃費効率を両立したFSIエンジン。パワーを無駄なく伝達するSトロニックトランスミッション。いずれもレースで磨き抜かれ、市販車へとフィードバックされました。技術で時代を先駆け、クルマに革新を起こし続けるために。Audiは信念と大きな情熱を持ってモータースポーツに取り組んでいます。
 

1945年 新たなスタート

終戦後の1945年、アウトウニオンAGはソビエト軍の占領地に位置していました。そのためソビエト軍は資産を没収し、工場は解体され、1948年にはケムニッツ市に登録されていた商標登録も抹消されてしまいました。その後1949年にインゴルシュタットにて新たな会社、アウトウニオンGmbHが設立されたのです。

 

インゴルシュタットからの再出発

1945年の終わり、旧駐屯地のインゴルシュタットにアウトウニオンの主要メンバーがスペア部品の倉庫を設立しました。この場所が1949年9月3日には以前の会社から独立した製造会社となるアウトウニオンGmbHに生まれ変わったのです。同年に配達用のバンやバイクの製造がはじまりました。

4リングスのロゴの元、初期の頃は既に実証済みのDKWの製品である2ストロークエンジンが生産されていました。当時、戦後の剥奪の時代には、頑丈で信頼性の高い車やバイクが求められていたため、配達用バンのDKW F 89 Lや オートバイのDKW RT 125 Wなどが開発され、インゴルシュタットの製造工場で生産されていました。同時に、DKW乗用車の開発も進んでおり、最終的には1950年の夏に、ラインメタルAGが所有していたデュッセルドルフの工場を借りて生産がはじまりました。

1954年以降、フリードリッヒ・フリックが徐々にアウトウニオンGmbHの株式の大部分を取得していきました。彼は、アウトウニオンを中期的にサポートできる強力なパートナーを探していたのです。そして1958年4月、ダイムラー・ベンツAGがアウトウニオンの株式の88%を取得し、翌年にはインゴルシュタットの会社は完全な子会社となりました。

プレミアムブランドとしての再出発のきっかけになった「Audi 100」

2ストローク エンジンへの依存、機種に対する方向性の欠如、そして批判的な報道により、1960年代初頭からDKW車の販売は下降する一方でした。そんな中、ダイムラー・ベンツは、インゴルシュタットのテクニカル ディレクターとしてエンジニアのルードヴィヒ・クラウスを任命。彼が一種の「持参金」として持ち込んだ4気筒4ストロークエンジンの技術を1963年に立ち上がった新しい乗用車、DKW F 102に適用するよう命じました。

そして1965年、アウトウニオンにとって戦後初の4ストロークエンジンとして、この新しい車の生産がはじまりました。これにより新しい時代の幕開けとなり、それに伴って新しい製品の名称が求められました。こうして、伝統に富んだ「アウディ」の名が復活したのです。

アウトウニオンの「アウディ」は当初、型式名として知られ、広く宣伝されて大きな成功を収めました。この機種は1972年まで生産され続け、途中でいくつかの技術的およびスタイルの変更が加えられました。しかし、1965年には会社がフォルク​​スワーゲンヴェルクAGの子会社になり、インゴルシュタットには別の意味で新しい時代が訪れていました。新しい経営陣は、インゴルシュタットのエンジニアが独自の機種を開発することを拒否しており、インゴルシュタットの生産能力をVWビートルの製造に利用しようとしていたのです。

しかし、当時の開発責任者であり取締役会のメンバーでもあったルートヴィヒ・クラウスは水面下でアウディの新しい機種の開発を進めていました。最終的にヴォルフスブルク本社の経営陣が認めたこの車は、1968年11月にインゴルシュタットで国際的に発表されました。その名はAudi 100です。Audi 100はそれまでのDKW車の伝統を完全に振り払った独自の車でした。新しいアウディは大成功を収め、開発者たちが正しかったことを証明したのです。また、Audi 100は、アウトウニオンが独自のアイデンティティを持続させるのにも役立ちました。

 

1971年 技術による先進

1971年、当時の時代を遥かに先取りした車「NSU Ro80」の広告に使われたスローガン「Vorsprung durch Technik(技術による先進)」は今でも会社の優れた専門性を強調するメッセージとしてうたわれ続けています。

 

「Vorsprung durch Technik」とアウディの代名詞quattroの誕生

会社の新たな指針が明らかとなり、1972年に初代Audi 80(B1シリーズ)が発売されました。この車には新世代のOHCエンジンや走行性を安定させるスクラブ半径など、輝かしい新技術が搭載されていました。第1世代の生産が終了するまでに、実に100万台以上の車が製造されました。

1974年、ルートヴィヒ・クラウスの後任としてフェルディナンド・ピエヒが技術開発責任者として任命されました。この「ピエヒ時代」に、アウディは非常に革新的な自動車メーカーへと変貌を遂げました。また、アウディのブランドとしての地位もこの時期に徐々に向上していきました。5気筒エンジン(1976年)、ターボチャージャー(1979年)、およびクワトロ4輪駆動(1980年)などの技術がこの時代の成功を雄弁に物語っています。

アウディの代名詞quattro

1980年3月にジュネーブモーターショーでデビューしたアウディクワトロは、アウディブランドの位置づけが世界の舞台において飛躍的に進歩したことを表すものとなりました。それは正に、「Vorsprung durch Technik(技術による先進)」という表現が文字通りに当てはまる瞬間でした。パーマネント式の四輪駆動とマニュアルでロック可能な2つのディファレンシャルによる優れたトラクションにより、アウディクワトロは滑らかな路面や凍結した路面でも完璧な性能を発揮しました。

 

広範囲に及ぶ技術の革命

アウディのその後の進歩は、広範囲に及ぶ技術の革命によって実現されていきました。フルに亜鉛メッキを施したボディ、最も優れた空力特性を持つサルーン、ターボチャージャー付きガソリンエンジンの拡大、経済的な直噴ディーゼルエンジンの開発、アルミボディ、初のハイブリッド車、直噴ガソリンエンジンや8気筒および12気筒エンジンを搭載した高級車の製造。これらはプレミアムカーのメーカーとしてアウディブランドが進化を遂げてきたことを証明する革命のほんの一部です。

 

2018年 初の量産電気自動車 Audi e-tronを発表

「Vorsprung durch Tecnik/技術による先進」をスローガンに掲げ、120年以上にわたり先進的なクルマを作り続けてきたAudiは、電動化にいち早く着手し、2018年には初の完全電気自動車e-tronを発表。※日本でのデビューは2020年。

 

120年の歴史から、その先へ。未来を切り拓く電気自動車e-tron

全世界で2025年までに20種類以上のEVを世に送り出すべく力を注いでいます。2026年以降発売される新型車のすべてをEVに。さらに2033年以降は内燃エンジンの生産を段階的に停止し、全ての生産車両のEVシフトを予定*。これからのスタンダードとなるモビリティの実現を目指して、「Future is an attitude」のブランドビジョンに基づき、世界中、そして日本でのEVの変革を加速させています。

* 一部市場を除く。

『レースは技術の実験室』は電動化により新たなステージへ。

アウディのファクトリーチームとしてのフォーミュラーEへの参戦は、2021年シーズンで最後となり、2022年の1月、アウディは、モータースポーツの世界における最も過酷なレース、ダカールラリーに初挑戦。さらに2026年から、アウディが専用に開発したパワーユニットとともに、FIA Formula 1世界選手権に参戦を発表。新たなステージでVorsprung durch Technik(技術による先進)を証明します。

2025年までに30種類の電動化モデルを提供

世界中でさらなる持続可能なモビリティを実現するカギとなるのが、e-モビリティです。Audiは2025年までに30種類の電動化モデルを提供するという目標を掲げています。そのうちの20種類は周囲にまったくCO₂を排出しない電気自動車になります。Audiにとってe-モビリティは、より持続可能であり地球温暖化を考慮した中心的存在なのです。

 
Audi e-tron スペシャルサイト

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AudiのDNAと最先端の技術を結集させた、Audiの電気自動車《e-tron》。e-tronの魅力を紐解く様々なコンテンツを提供しています。
Audiのモデルラインアップ

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コンパクトなAudi A1からフラッグシップのAudi A8まで、すべてにおいて高い完成度と高品質を誇るAudiの新車一覧。
 
※本サイトに掲載している写真は欧州仕様です。日本仕様とは異なります。